昭和40年02月18日  朝の御理解



  神の願いを願いとする。氏子の願いを神の願いとする。あいよかけよというのは、ここまでいった時に本当のあいよかけよの働きというものがある。私の事をしてくれたから、私もあんたの事をしてあげようと云った様な意味合いのもんじゃないと、ね。私の事をしてくれたから、私もあんたの事をしてあげよう。神の願い神の願いを自分の願いとする。神様の願いを自分の願いとする時に、その願いお互い願いと言う事が、同じ事になってくる。神様の願いも私共の願いも同じと言う事になるでしょう。
 神の願いを願いとし、神様の願いを私共の願いとさせてもらう。そこに氏子の願いを神の願いとする。そこの願いと言う事は、同じ事だという。そこまで私は高められた願いになっていかなければいけないと思うですね。今の事分かったでしょうか。あいよかけよそこまで高度なものにしかも純粋なものに、段々おかげを頂いていきたいと思いますね。例えばお互いが一つの願いをたてる。願いをたてたからというて、その願いに向かって進まなければおかげにならん。
 それがあるし神様に喜んで頂くような願いであっても、おかげにならん。昨日福岡から参って来たある方が、今年は愈々記念祭、15年の記念祭でもあるし御造営もある事だし、どうでも一つ私の頂いておる仕事の上に広大なおかげを頂きたい。ですからどうぞ私の御用の場の上においておかげを頂きますようにと、そういう願いをたてて、一心に神様にその事を願って、もう神様がもう働き出されたじゃろうかと言う様にですね、何かおかげの芽がぞっくり出たような感じがしたです。その時は。
  所がですよ、れが一月たち二月たちして行く内にです、その芽がみんな枯れてゆくという今感じであります。どう言う事でしょうかね、私の願いを神様が聞き届けて下さった。神様がこういうふうに、そのおかげの頂かれるだろうと思われるような、芽がぞっくり出た感じだった。心が生き生きとしてきた。勇ましくなった。こりゃおかげが頂けるぞと思うておった。所が一月二月たちするうちにです、そのおかげの頂けそうな芽が、現在では、まあ云うなら、もうほとんど枯れたという感じ。
 だから意気消沈して、神様にお縋りする気持ちすら薄らいで来たといわれる。どう言う事だろう、いかに神様のお喜び頂ける様な事に発願を致しましてです、どうぞおかげ頂かせて下さいというても、神様がその願いに、ホッとこう応えて下さるのですから、私共はその事に又応える次の信心がなさらなければ、駄目だと言う事が分かりますね、眼目がです。神様が間違いなしに喜んで下さる事だからというてですね、これは育つというものではないと言う事。
  一つの願いをたてたらです、男子志をたてて共感を譲る、学も知らなずんば死すともかえらず、と言った様な言葉が御座います。この願いが成就しないならばですね、いわば死してもかえらずと言った様な、強い一つの思いというものがです、あればおかげになるかというと、そうではないと言う事。その過程が大事だと言う事。学も知らなずんばという、自分の願いがならなずんばと、それが成る事の為にです、やっぱり精進が努力が必要だと言う事。
  その決心はいわば見上げたもんですけれども、その努力が大事だと。それでお道の信心させて頂く者が一つの願いをたてて、その願いに向かってまい進する。どうぞどうぞというて、お願いをして進むだけではいかんと言う事。でないと先程申しましたように、その福岡のその方じゃないけれども、確かに芽を出したような感じがしたけど、それが全部枯れてくると言う事になってくるとです。
 そこに心が沈んでしまう。心が暗くなってしまう。どう言う事に出合っても心が沈まない、いやおかげになると確信でけれる、私は信心が必要だと言う事。その信心なさずしてです、私はおかげは頂かれんと思う。それにはねなんというてもです、教えを行じぬく徹して頂くと言う事が必要だとこう。例えばそれはですよ、そんなに高度なものではなくても、銘々の小さな一つの願い、商売させて頂いておる者が、商売繁盛なら商売繁盛のおかげを願うと言う事においてもそうです。
 ここで一生懸命お参りさせて頂いて修業しよるから必ずおかげになると。その確信をもって育って行けれるんだけれども、これが果たしておかげになるだろうかと、こう思いよるばってん。そういう時にはですね、皆さんが教えを本気に取り組んでいないのであり、教えを徹底して行じていない時であると言う事を悟らにゃいけんです。ね、おかげを頂ききるじゃろうか不思議にです、例えば一つの御教えが、自分の心の中を占領してしまっておる、その御教えにです徹底取り組ませて頂く。
 例えて言うならばです、「人を軽う見な、軽う見たらお蔭はなし」もうおかげはなしとおっしゃる。この御教え一つだってそうでしょう。どんなに高度な願いをもっておりましてもです、その願いそのものは神様が喜んで下さるような願いでありましてもです、その意気に神様が一応感じて下さるけれどもです、それが一つ枯れ二つ枯れしてくるようになると迷いが起こってくる。おかげが頂ける。
 いや神様もこりゃあんまり当てにならんと言う事にもなってくる。そう言う様な場合ですね、結局徹底した教えの行者としての、道の信奉者としての実意丁寧を欠いておると。例えば一つの御教えに対しましても不思議なんですよ。願いをたてるこの御教えに取り組む、こういう修業させて頂く。ここを改まらせて頂くと一つの願いをたてたなら、こう言う様なものが条件として揃わなければいけないと言う事です。
 一つの願いをたてたらそれにふさわしい、この御教えを行じぬくと、修業をいとわんと、その為にはこの事を改まる、と言った様なですね、そういう信心がなされて初めてです、例え枯れてきよってもですおかげになる。こりゃ神様の御都合だと確信がもてれるんです。そしてそれがです、願いが愈々高度な願いと申しますか、段々信心させて頂いておると神様の心が分かる。
 神様の思いが分かる。思いが分かっただけではいけんのです。信心させて頂いておると教えを頂く、その教えがそのまま神様の思いである。だからその思いに愈々添わせて頂こうという願いが発心される。神様の思いに愈々応えようとゆう発心ね。そこにです神の願いを私共の願いとすると言う事は、そう言う事なんです。そしてそういう願いをかけさせて頂いたらです、只今申しますような、まあ一つの御教えに絞りましたけれども、例えば「人を軽う見な、軽う見たらおかげはなし」と。
  例え高度な願いであっても精進しておっても修業しておってもです、おかげはなしとおっしゃるような、はっきりおっしゃっておられる御教えがです、疎かにされておったらです、おかげを頂くと言う事はおかげはなしと仰っておられる。「人を軽う見たらおかげはなし」と、ね。ですから人を軽う見てはならない為の精進がいる。又自分の追求がいる。自分のような者がと言う事になってくる。
 そこに自分よりも軽いものはなくなってくる。皆んな自分よりも立派に見え、自分よりも重い物に見えてくる。自分が良かごと思うておる間は、おかげにならんって。そこからです人を大切にさせて頂く、人を大事にさせて頂くと、例えばこれは一つの御教えに絞っての話なんですよね。人を軽う見なと仰る。これは沢山ある、その御教えの一つ一つがそういう意味合いにおいてから、行じぬかれる時「人を軽う見な、軽う見たらおかげはなし」と仰る。だから所が軽う見なければならん。
 あまりにも沢山多い私共の周囲に、その時に私は自分というものの、自己反省というか自分の追求というか、自分のぎりぎりの自分の汚い、あの人ばっかりは汚か人じゃある。自分の汚かこつは、あの人は汚いと思うたその人を軽う見る。けど自分はもっとより汚い物を自分はもっておる自分であると言う事が分かる時、その人を軽う見る訳にはいかん「人を軽う見な、軽う見たらおかげはなし」と。
 そういうふうに一つの御教えを追求していき、自分のそれが信心の血、肉にその御教えをして行く所の精進と同時にです、その為の矢張り修業がなされなければならないと言う事。一生懸命に参りもしなきゃならん、拝みもしなきゃならんと言う事。同時にですそういう願いを立てたからにはです、受け物を作らせて頂く為にも、私が本気で磨かにゃならんのであり、改まらにゃならんのである。
 この事だけぐらいは、改まってこの事を願うと。その例えば願いがです、段々信心をさせて頂いて分からせて頂く事は、神様の願いであり神の思いである。その神の願いを私共の願いとして信心修業が出来るようになる時です、氏子の願いの為にです、神の願いを願いとする時に、氏子の願いを神様が願いとして下さる。しかもその願いは一つだと言う事になる。素晴らしいでしょうが。そう言う様な、私は御教えがですね、「神に使われ神を使え」と言う事。
 「神は取次を自由にし、取次は神を自由にし、あいよかけよで楽しい事じゃ」と、取次の願いもです、神の願いも同じ願いになっておる。そんならこれは、商売繁盛の事やらは、神の願いと一致せんだろうかと。どうぞお野菜がよう出来ますようにと、言った様な事は神の願いと一致せんだろうか、どうぞ家庭が円満にと言う様な事を、願うのは神の願いと一致せんだろうかとそこにです。
 そこに一致点を出して行く所に、信心の稽古があるのです。 お野菜が立派に出来ると言う事は、商売が繁盛させて頂くと言う事が、家庭が円満になると言う事が、私共が分限者になると言う事が、神の願いと一致する所迄この願いというものが、高度なものになっていかなければならない。必ずしも記念祭の事だけじゃないと、言う事が分かるでしょう。ここの所を一つ皆さんよう分からにゃいかんですよ。そこにいわば神の願い、氏子の願いが、一致する一致点を出していこうとする所の精進。
 この辺が理屈を聞けば見易い、けれども実際それが本当な事になってくる為には、難しい、ね。この例えばお商売ならお商売がです、貴方のお商売と言う事になることなのですから、もう神様が貴方のお商売と言う事になった時にです、もう神様がこの俺のしよる商売が、繁盛せにゃいいがと思われるはずはないですもんね。そうでしょうが。原洋品店がです、シャンソン化粧品がです、福嶋商店がです。
 そこにきに私は練るというか練り出すというか、研究するというか、そのところが神の願いと一致点を出して行く所にです、本当のお道の信心の素晴らしさがあると、こう思うですね。そこに神の願いとしてのです、神の願いとしての所謂、神様の願いというものがです、ね、どのくらい庶民の中にです、徹底する事を願うておられるかと言った様な事が分かってくるですお道の信心は。
  神様の願いと言えばです、なんか公共施設でも作って、ね、庶民救済と言った様な事に当たると言った様な事だけではないと。私共日常茶飯事の中にそれぞれの立場持ち場において御用頂いておる。御用そのままが神様の願いとして、それに繋がって行く様なおかげを頂く為にです、実意丁寧をもってその事に当たらせて貰い、実意を丁寧をもってそのことを分からせて頂く事に精進する。
  只記念祭なら記念祭の事の為には、この私の頂いておる商売が繁盛いたしますようにと、その願いは実にだから素晴らしい。素晴らしいからぱっと一辺に芽が出たような感じがした。はあ神様がお働き下さるなぁ、早速お働き下さるなぁと。所がですそれが一つ枯れ二つ枯れして、もう現在では二月余りの間に枯れ果ててしもうた様な中に現在私がある。淋しい、神様も神様、神様の働きといったものを疑うような。
 自信までなくしてしまうような事になってきた。そこで只今私が申しました様な所にです、焦点を置いて教えに取り組む、本気で教えを徹底して取り組むと精進をする修業をいとわん。その願いの為にならそういう願いをさせて頂いておるのであるから、これだけぐらいは改まらんにゃという信心になってゆく時に、その事に確信がもてる。所謂そのどんな場合でも迷いが起こってこない。これは不思議に。
 その事が精進されておると、そういう精進の中からです、私は私共の頂いておる御用と、所謂私共の願いと神様の願いが一致する所迄、浄化するというね、高度になってゆくというおかげが実感されるようになる。そこに神の願いと氏子の願いが一つになってね、神の願いが成就した時には、すでに私共の願いも成就しておる。願いは一つなのだからと言う事になる訳なんですね。
   おかげ頂きました。